雛人形の役割を説明するのにはまず、「日本人と人形の歴史」を考える事が必要だと思います。
土偶は、縄文 時代(約16,500年前から約3,000年前)に人間を模して、あるいは精霊を表現して作られたと考えられる土製品で、沖縄県を除く日本列島で製作された。日本最古の人形と言っていい。
現在までに出土している土偶は15,000体ほどあり、100%と言って良い程女性である。またその全てと言ってよい程が、ゴミ捨て場と考えられる場所から出土し、破損しており、しかも明らかに、故意に壊してあり、お焚 き上げられたものである。また破片を復元しても完全な形になる物もほとんど無い、そのため、祭祀などの際に破壊し、災厄などをはらうことを目的に製造されたという説が一般的に支持されています。要するに何かの生贄 の儀式にわざと壊し、使用された物と考えられる。
また、大半の土偶は人体を大きくデフォルメして表わし、特に女性の生殖機能を強調していることから、豊穣、多産などを祈る意味合いがあったものと推定する説もある。その他、神像、女神像、精霊、護符、呪物などの多様な説がある。
諸説色々あるのだが、その中で私が興味あるのは、土偶が100%と言える程、女性であり、その生殖機能を強調していて腹に、たて線が有る物が多い事から、「妊娠した女性の安産を祈願した儀式に使用した物」との説です。
この時代出産で亡くなる母子は非常に多かったはずです。そこで古代の日本人も持っていた「身代り思想」だったのだろう!と思います。ひいては、安産だけでなく、病気や怪我の回復や、災害除けの生贄(いけにえ)として土偶は作られ、壊されたのだと考えられないでしょうか。これは現代の雛人形にも通じる身代りの思想です。
いずれにせよ、人や神の代わりにこのような人形を作った事は確かなようです。
※古代より人間は理解できない事は、神や悪魔の仕業 と考えました。そこで悪い事はそれを回避する為に悪魔や神に生贄 を捧 げました、それは色々な昔話にも見られます。それは時には、実際に生きた人間を生贄に捧げられた事も解っています。現在、神頼みを成就する為に、危険な荒行 やお百度参りしたり辛い事を自分に課す事はこんな生贄の思想のなごりのように思えます。
埴輪(はにわ)とは、日本の古墳時代に特有の素焼の焼き物で、古墳上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。埴輪には人物だけでなく動物・器財・家形等があり埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能であり、貴重な史料でもある。
埴輪の起源は、『日本書紀』によると、垂仁(すいにん)天皇のころ、貴人が死去すると、その陵(みささぎ)のまわりに生前付き従っていた人々を生き埋めにする殉死(じゅんし)の風習がありました。生き埋めになった人たちは、昼夜泣き叫び、見るに耐えない光景であったということです。そこで野見宿禰(のみのすくね)は一計を案じ、土で作った人物や馬を生きた人に替えて古墳のまわりに立て並べてはどうかと天皇に進言したのです。天皇は宿禰の進言を大変喜ばれ早速、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓にこの制度を採用したとのことです。簡単に言うと、「王の埋葬 時に側近達を道ずれに生き埋めしていた代わりに埴輪を作り、人の代わりに埋葬した」のです。
ゆえに「人型埴輪」は人の身代りとして作られたのです。
※このような人形は、日本だけでなく世界中に出土しています。古代の日本でも、色々な理由から実際に人間を神や悪魔への生け贄として
現在でも、全国の神社で「大祓 」と呼ばれる行事があります。知らず知らずのうちに犯した罪や過ち、心身のけがれを祓い清めるための行事です。
また、「輪くぐり」で、親しんでいる方が多いと思います。こちらは疫病 を祓 う無病息災の祈願がはじまりのようですが、どちらも「形代」が使われています。
こうした事は「古事記」にも記載され、平安時代の国家の法制書である「延喜式」にも記されており、古くから行われていたことが解ります。
古来中国では、上巳の日(3月3日)に、川で身を清め不浄を祓う習慣(上巳の祓)があった。平安時代に中国から日本に取り入れられ、日本の「大祓い」の風習と結びつき、「形代」に不浄(自分の罪・禍・けがれ)を移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になった。この風習は、現在でも「流し雛」として残っている。
「流し雛は」、「源氏物語」の須磨の巻に出てくるほどに歴史は古く、光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、須磨の海に流したという著述があります。
現在の「形代」は名前と年齢を書き、身体をなでて息を吹きかけます。それが自分の罪・禍・けがれを移すこととなり、焚 き上げられたり、海や川に流してわが身の代わりに清めてもらうのです。まさに「身代り思想」そのものです。
天児(あまがつ)は、皇室や公家、上級武家の風習として伝えられ幼児の枕辺におかれ、上巳の節句」(じょうしのせっく)に使用され、幼子の病気や災厄をはらい、無事な成長を祈るものでした。
天児(あまがつ)は幼児の身近なところで、病気やけがれを移しかえる役目をしていました。初歩的な物は、二本の竹の棒を束ねて人形の両手として、さらにTの字形になるように別の竹を横に組合わせます。その上に白絹の布で作った丸い頭を取り付けて作ります。それに簡単な衣裳を着せて幼児の枕もとに置いて、魔除けのお守りとしたのです。時代と共に、赤ちゃんの産着など、より精巧な衣裳を着せて飾り用にした物も有り、現在の雛人形の原型とも考えられています。
古い持代は、子供の無事な成長を見届けると川や溝に流したり、燃やして灰にしたりします。そのため古いものが残っていないのだと考えられます。形代(かたしろ)と天児(あまがつ)は、明確な区別も難しく、用途も入り混じっていたのではないかと推測されます。
天児(あまがつ)が皇室や公家、上級武家で用いられたのに対し、這子(ほうこ)人形は、庶民の間で同じように飾りました。
幼児の枕辺におかれ、祓の後も何年か用いられようになり、幼子に身に添えて持たせるなどの風習も生まれ、幼児の愛玩用のぬいぐるみとしても愛用されていたと思われます。
ぬいぐるみの原型とも言われるように。わら束などを芯にして白い紙を貼って作られていたり、白絹で中に詰め物をしたぬいぐるみの様な素材で作られています。その形状は幼児が元気に這い這いする姿に由来するといわれています。
また、江戸時代中期には、天児を男雛、這子を女雛として飾られている絵画があります。天児・這子の形が立雛の男雛・女雛に似ているためだと考えられます。
このことから子供を災いから守る天児や這子を雛のルーツだと考えてもおかしくありません。
這子(ほうこ)のデザインは現在でも使われ飛騨高山の「猿ぼぼ」は、幼児の災厄を祓う身代わりの役をつとめる這子(ほうこ)が次第に変化して玩具となっています。
※埼玉県入間郡三芳町立歴史民俗資料館 (ホームページ参照)
昔、病気になったりするのは、魔物 のせいだと考えられていました。今も昔も子供は病気になりやすいもので、魔物に狙われやすいと考えていました。魔物は耳は良いが目は悪いと考えられていて、子供の名前を呼ぶと「魔物に子供の存在を知られてしまう」。
そこで魔物も「嫌うだろうと思う物」を子供の名前に付けて呼べば、「魔物に子供の存在を知られない」と考えました。それは「丸 」です。「△△丸」例えば牛若丸 なんて幼名 にした訳です。「丸」とは、排便する事つまり大便・小便の事です、今でも赤ちゃんのトイレを「おまる」と言いますね。また、昔の貴族が自分の事を「まろ」と言った「まろ」も「まる」が変化した物です。船の丸もここから転じたものです、船も魔物が転覆させると考えたのでしょうか。